ファクトリーブランドの先駆け 北海道から発信し続ける「KAMISHIMA CHINAMI」の18年

A Picture of $name 鎌倉 泰子 2017. 3. 6

H.P.FRANCE所属のバイヤーとして、「destination Tokyo」「goldie H.P.FRANCE」「TIME&EFFORT」などのセレクトを手がけて牽引してきた鎌倉泰子さんが、気になるデザイナーを訪問。対談を通じて、その魅力やものづくりに迫ります。

今回訪ねたのは、およそ20年にわたってスタイリストやバイヤーに愛され続ける「KAMISHIMA CHINAMI(カミシマチナミ)」。モード好きなら誰でも知る?! 「KAMISHIMA CHINAMI」ですが、実はファクトリーブランドの先駆けとして始まったそう。

デザイナーのカミシマさんの片腕として、ともに約20年駆け抜けてきた沼田光重ぬまた みつのぶさんに、これまでなかなか語られることのなかった「KAMISHIMA CHINAMI」の知られざる歴史とものづくりの世界を尋ねました。

(右)沼田光重(ぬまた・みつしげ) 「KAMISHIMA CHINAMI」セールスマネージャー

(右)沼田光重(ぬまた・みつのぶ)
「KAMISHIMA CHINAMI」セールスマネージャー

ファクトリーブランドの先駆け

鎌倉: 最初の出会いは2003年頃でしたね。

沼田: 早いですね。1998年くらいから準備を始めたので18年経ちます。2000年から本格的に活動を始め、2002年に東京コレクションに参加してランウェイショーでの発表をしました。

鎌倉: その当時から、ブランドの活動の拠点は北海道だったのですか? 北海道は産地というイメージもないので、珍しいですよね。

沼田: カミシマの出身が北海道なんです。カミシマは、東京のエスモード・ジャポンを卒業後、売上規模の大きい企業のデザイナーとして働いていました。何年か勤めた後、自分を見つめなおすために、2年ほど海外を旅して、札幌に戻ったんです。そこで、自分のやるべきこと・できることは、やはり繊維製品に関わることだと思い、まず札幌でファッションに関わる仕事にはどういったものあるのかを聞くために、当時縫製専門の工場である弊社、「株式会社ティスリー(以下、ティスリー)」に来て、社長の渡部に会ったのがブランドの始まりです。

沼田: 当時はどのメーカーも『生産基地は中国へ』『海外で大量生産』、という方向へ向かっている時代でした。ティスリーは縫製業がもちろんメインでしたが、当時すでに、自分たちで企画を立て、生地を縫い、卸すというところまで一貫してできるようにならなければ生き残れないという考えを持っていました。そのタイミングでカミシマに出会い、『自社ブランドを作ろう』という流れになりました。

鎌倉: 最初からデザイナーの名前をブランド名に冠したことに、「コンセプト」作りの強さや、継続を見据えた意気込みを感じます。

沼田: 北海道は、アパレル関係企業がたくさんあるところではないので、コンセプトが固まるまでには、紆余曲折がありましたよ。『ほかのブランドにはない、自分たちにしかできない特別な服とはなんだろう?』というところから考え始めました。縫製工場がオリジナルで生地を作り、そこに得意とする縫製の技術を乗せたものが「KAMISHIMA CHINAMI」だと考えると、当時はまだ珍しかった「ファクトリーブランド」ですね。

色へのこだわり

最初は手ずから染めていた

鎌倉: 「KAMISHIMA CHINAMI」の服は毎シーズン、奇をてらったりすることなく、良い意味でびっくりはさせられないんだけど、驚きや発見があります。私は「安定感」と呼んでいいのかな、と思っているんですけど。色も、この服が「KAMISHIMA CHINAMI」だと感じ取れるところだと思っています。いわゆる鮮やかな色に、1枚曇りガラスがかかっているような軽さとアンニュイな雰囲気があって、「光ってないけど蛍光色」みたいな感じがする色がありますよね。

17SSコレクションより(提供:KAMISHIMA CHINAMI)

沼田: ブランドを始めるとき、生地屋さん、機屋はたやさんを探すところから始まったのですが、カミシマは特に色へのこだわりが強かったので、既存の生地ではカミシマが満足いく表現はできないことが分かりました。あったとしても、必要な量が少ないので売ってもらえません。

そこで機屋さんに直談判してみたら、染色する前の生地なら、別注であっても少量で引き受けてくれることになったんです。それで染色していない布を洋服に仕立て、それを自分たちで後染めする……という進め方になりました。小売店さんに追加オーダーをいただいたりすると、個体差が出てしまうこともあったのですが、本当に1着ずつ手で染めていました。

鎌倉: そんな時代があったなんて……! 一度アトリエにお邪魔したことがありますが、大きなお鍋のようなものと、長いお箸のようなものを使って染めているのを見せていただきました。あれで染めていたんですね。分厚い本のようなものもあって、色のついた生地片と、手書きの文字でびっしり埋まっていました。ミリの単位で染料と混率を書いたものが記してあって、大事な資料とご説明いただきました。

いままで染めた色の資料(提供:KAMISHIMA CHINAMI)

いままで染めた色の資料(提供:KAMISHIMA CHINAMI)

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沼田: 僕も最初は営業を専業としていなかったので、染色にも携わっていました。自分たちの手を動かしてデザインが服になっていく過程や、そこで得られるさまざまな知恵は、ブランドのものづくりの原点ですね。

鎌倉: 例えばこのグリーンのブラウス(左写真)も、身頃の生地とヘムラインの生地が違いますよね。違う生地を組み合わせたものを後染め、ってとても大変そう……。伸縮率とか色の定着加減も違うし……。

沼田: 製品染めは匠の技ですよ! 白い状態の生地を染めると、全体的に10%程縮みます。だけど、肩は伸びるけど着丈は縮むとか、半袖のものは、袖丈はあまり変わらないのに、縮むことを想定して長めにデザインした身頃が、今度は重さでさらに伸びてしまったり。全体が均等に縮むことがないので、それを計算してパターンを起こします。染め終わったものとパターンは、別の商品かと思うくらい形が違うんです。

鎌倉: へぇぇぇー!そうなんですね。タテ糸とヨコ糸の種類がさらに違ったりしたら本当に大変ですね。

沼田: 何度失敗したか分からない。僕もやっていたんですが、試験的に染めて、『縦は何ミリ、横は何ミリ縮みました』という縮率を、パタンナーさんに知らせます。でも、計算どおりには上がらないです。それを何度も繰り返すうちに、素材の特性に対応する技術が蓄積されていきました。

→Next:柄は1枚の絵としておさまるように…… 細部へのこだわりがオーラを作る

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